​60 戦士の背中

​著・シチミ大使

 ――何もない。

 何も感じられない、茫漠とした闇。

 彼方まで見られた景色には地平線を染める赤が焼き付いている。

 終わりのない戦場と戦地の怨嗟。誰かのために声を上げることも、何かのために声を荒らげることも諦められた死地があった。

 産声を上げるのは破壊と殺戮のみで、希望の徒は消え去り、蛮勇の猛火は儚くも燃え尽きる。

 人間に、生きる価値は失われた。

 戦士たちはとうに立ち消え、灯りを失った常末の暗礁が空を覆う。

 ――その黒い稲光を知っているか。

悪夢の景色を網膜の裏に焼き付けているか。

 黒い雷撃は一つの形状を取っていた。

 それは漆黒の、破壊神の形相。

 赤く、紅蓮の色に染まった瞳で残った人々を睥睨する。

 この世への終わりのない恩讐。生きとし生ける者を恨み、妬み、そして呪い続ける死の眼差しそのもの。

 ヒトは終わりに堕ち果てた。

 だから手打ちにするしかあるまい。

 この世界を、終わりの淵に落とし込むことでしか、永劫の苦しみから解放されないのならば。

 空に浮かんだ邪智が哄笑を上げる。

 世の果て、人の世界の終焉を望んでいる。

 地面に突き立ったのは怨嗟が生み出した武器たちだ。

 どれもこれも、歪み折れ曲がった刃たちを、大人たちは無心に握り、そして喉笛を掻っ切る。

 赤い血潮が舞い上がったのも一瞬、死した人々は空を覆う絶対の闇に吸収されていく。

 死を超越した、死の最果て。人間の証明と尊厳を全て、根こそぎ奪う悪の権化。

「彼女」もそれを掴み取ろうとしていた。闇よりの手招きが武器を握った端から流れ込んでくる。

 己の衝動へと直接的に語りかけてくる声音に、心臓へと刃を突き立てようとして、不意に暗黒を引き裂いた影があった。

「……巨人……」

 白亜の巨神だ。橙色の勇猛たる瞳を持ち、その腕には棍棒が握られている。

 柄より伸長するワイヤーを引っ張り込んだ途端、棍棒の武装に巻き付いた蛇腹の刃が疾走し、蠢動する闇を断ち切っていた。

 白亜の人型兵器は漆黒の稲光より放たれた無数の黒いカラスたちを視野に入れる。

 風切り音と獰猛な獣の唸り声のような駆動音が混然一体と化し、黒カラスを一体、また一体と引き裂いていく。

 だが、怨念の集合体からは終わりのない闇の軍団が誘われていた。その眼差しを受けてか、それとも偶然であったのかは「彼女」には分からない。

 だが、白亜の巨人はこちらを視界に入れたのが窺えた。

『……逃げ遅れか』

 低い、バリトンの利いた男の声であった。どこか突き放すかのような物言いであったが、襲いかかってくる黒カラスを叩き落とし、その純白の勇者は吼え立てる。

 最早、それは一種の剣なのだろうか。

 棍棒は風圧を織り交ぜ、暴風域と化した打ち下ろし斬撃が黒カラスの頭部を斬り落とし、その腕をもいでいく。

 黒カラスも負けじと銃撃したが、それらの行動をまるで予見したように巨人は飛び退り、跳躍してみせた。

 重量級の巨体には似つかわしくないほどの神速。

 一瞬にして躍り上がった巨体の脚部より、幾何学の軌道を描いて砲撃が放たれる。

 直下にいた黒カラスは即死していた。

 無論、周囲に展開していた同じ者たちも、だ。ここでの撤退を余儀なくされ、黒い稲光共々逃げ去っていく。

 まるで、通り雨のように。

 しかし、世界は再び青空を取り戻すことはなかった。

 どこか掠れたような曇天より、灰色の雨が降りしきる。その雨の中で、白色の巨神は濡れていた。

 王冠を想起させる頭部より滴る雨粒は、まるで涙しているかのようでさえある。

「……あ……」

 不意に、であった。

 頭部が開き、搭乗者が露になる。

 突然に神話の世界より現実に引き戻されたような気がして「彼女」は狼狽したが、巨人の搭乗者は何でもないことのように告げる。

「……いや、死に損ない、だな」

 トン、と降り立ったのは肩幅の広い、巨体であった。特別にあしらえたのであろうか。頭部を覆う仮面を被ったまま、その搭乗者は周囲を見渡す。

「……死屍累々とは、まさにこのこと。ロストライフ現象の末期か。ここまで来れば、何も言うまい」

 男の声音、と認識した時には「彼女」の手に差し出されていたのは拳銃であった。渡されたまま当惑していると、相手は断ずるように言い放つ。

「生きていても辛かろう。自害するのならば早いほうがいい。ロストライフ現象は思ったよりも深刻だ。生きている者をさらに追い詰める」

 彼は自分の死に様を選べと言っているのか。掴まされた拳銃を、しかし「彼女」はすぐには引き金を引く気にはなれなかった。

 暫く見つめ合っていたからだろうか、仮面の男は口にする。

「……何だ? まさか私の《O・ジャオーガ》に、神でも見たか? 生憎だが、この世に信に足る神はいない。神のいない不均衡な世界に生きるのは信仰を持つ者からしてみれば生き地獄のはず。いつでも死ねばいい。私はこれ以上の干渉はしない」

 そのまま、《O・ジャオーガ》と呼ばれた巨神の掌に乗り、再び旅立たんとする男へと「彼女」は縋りついていた。

 否、縋り付くと言うよりかは少し待って欲しかった。

 現実が全て剥離したのだ。

 何もかも追いつかない。死を容認するにしても、このまま生きるにしてもだ。

 その瞳を悟ったのか、神の巨兵を操る男は致し方なしとでも言うように嘆息をつく。

「……まだ死ねないのか」

「……生き方も、死に方もわからなくって……」

 縋りたいわけでも、ましてや祈りたいわけでもない。

 ただ唐突に、「何もなくなってしまった」。

 だからこの場合は、懇願だ。

 何もない世界で死に急ぐにしても、生き急ぐにしても、「指標が何もない」のなら、どちらも選べないのだ、と。

 男は《O・ジャオーガ》と呼称された巨神の動作を止めていた。

「……来い。この灰色の雨は毒だ。ロストライフで堕ちた魂をより混沌へと染め上げる。……まこと、人の世をあまねく呪うと言うのか。あのお方は」

《O・ジャオーガ》が挙動し、「彼女」を掌へと導く。男の無言の圧に致し方なく乗り込んだ。

 雨より守りつつ、荒野へと堕ち果てたかつての村を、男は仔細に観察しているようであった。

 ところどころで先ほどの黒い旋風に中てられた人間たちが自害している。

 巨人が一歩歩けば、そのような人々は塵芥へと還っていた。

 砂のようになってしまったかつて人間であった者たちは、風に吹かれて消え去っていく。

 その証明でさえも拭い去られて。

「生き残って後悔しているか。貴様は」

「……わからない」

 ほとんどの思考を捨て去った先にあったのが闇による死の誘発であったのならば、今の「彼女」には少しばかりの思考回路が戻ろうとしていた。

 つい一時間前まで活気のあった名のある漁村が、突然に空を覆った黒い稲光のようなものに染め上げられた。

 そして、たった一時間にも満たない間に、村の者たちは自ら死ぬか、あるいは殺し合い、穏やかであった潮騒の音は動乱の人間たちの殺戮音楽に切り替わっていた。

 そんな中で正気を保てるほうがどうかしている。

「彼女」もそれに中てられ、自分が死ぬのも何の疑問も抱いていなかったが、《O・ジャオーガ》の一定の歩調が、今は正気の線を、僅かながら保たせてくれている。

「……この巨人は……」

「人機だ。貴様らは知るはずのない、裏の世を支配する機動兵器。私の《O・ジャオーガ》は叛逆の人機だがな」

「……叛逆の、巨神……」

「……神ではないと、言い含めたところで無駄か。かつて《モリビト一号》によって失われたいくつもの文明圏は、あれを神の怒りとして伝えたと聞く。結局人は、理解できないものは神や悪魔に置き換えるほかない」

「あれは……。黒いカラスたち……」

「《バーゴイル》のことか? あれの改良機も増えてきた。私がキョムにいた頃よりも、今のほうが随分と連中は取り回しが効くらしい。あんな無人の人機など、殺戮と怨嗟をばら撒くだけの、悪魔よりも卑しい存在だと言うのに」

 吐き捨てるような論調であったが、内側に激しい怒りを抱えているのが窺えた。ただ諦観と侮蔑を含んでいるだけではない。

 何か別の、全く異なる感情を抱いているように思えた。

「……王者、王牙……」

「《O・ジャオーガ》だ。……まぁ、呼びたい名前で呼ぶがいい。どうせすぐに死する身だ。何かを知ったところで、何かができるとも思えんからな」

《O・ジャオーガ》は寒村の中でも切り立った崖の下へと器用に潜り込む。まるで人がそうするかのように、雨を凌いでみせた。

 男は仮面を取ることはない。

「……さっきの。ロストライフ……」

「ロストライフ現象に関しては、言うべきことの少ない。ある一人の、世界を手にした男の妄執が生み出した、恨みの産物。それに尽きるだろう。その恨み、怨嗟に中てられた者たちは殺し合い、死を選び、そしてその闇はさらなる闇を生む。まさに生き地獄を形にしたような現象だ」

「王者は、それを……壊しに?」

「馬鹿を言うな。私と《O・ジャオーガ》だけで全てを粉砕できるわけでもあるまい。これは……ああ、ただ目の前で人死にが出るのが許せない、心の弱者がそうするだけの慰めなのだろうな。……あの日、無力でも真の強者が言ったように」

「……王者は、人機……。あなたは……?」

「名乗るほどの名はない。名無し、とでも呼ぶがいい。……敗北者にはお似合いの名だ」

「名無し……。どうして、あの……空と戦って……?」

「あのお方には勝てんよ。だが抗うことくらいはできるのだと、学びはしたのだ。ロストライフ現象は彼の方の呪いに等しい。世界を呪い、生きとし生ける何もかもを恨み続ける。そうなのだと規定された事象なのだ。だから、この世が生者の側にあることが許せないのだろう。……私の命を戦場で拾い上げてくれた時から、あのお方の掲げる理想世界は変わらない。万物の世に等しい世界を。……ある意味では皮肉にも叶ってしまったな。あの方は全てを憎んでいる。万物、分け隔てなく。そこに貴賤の区別もない。何てことはない、あの方からすれば全ての生物も、空も、世界も、憎悪すべき対象なのだ。だから、元より区別などなかった。……私はその弱みにつけ込まれ、まんまと己の愚と、そして闇を世界に投げ放っただけの敗残兵だ」

「……あなたも、あの闇に追われているの?」

 その問いには男は憫笑したようであった。

「あの方が、私を追う? ……馬鹿な。ロストライフの闇に、そんな浅ましい感情はあるまい。裏切っただの、負けただのは結果論だ。私は相応しい戦士ではなかった。だから、相応しくない戦いを繰り広げているだけだ。敗残兵に相応しいのは、無様に抗い、そして死するその時まで、諦めない――そうだとも。負けても諦めなければいい、か。何度思い返しても私は、あの言葉一つにやられてしまったのだな」

「……王者も、それを望んでる……?」

「人機にそんな感情など……。いや、あるのかもしれないな。最近はそうも思えてきた。人機が、ただの破壊兵器ではないのならば、三年前に南米で戦ったあの凄まじい操主も、きっと別の答えに辿り着いたに違いない。禊の白に塗り替えたのも、そういう心境があったのかもしれない」

 白亜の《O・ジャオーガ》の瞳がその時、微かに揺らめいた。途端、稼働した関節部より軋みが生じる。

「彼女」を下ろし、《O・ジャオーガ》と名無しは空を仰いでいた。

 直後、闇夜に染まる。

 赤い月の浮かぶ狂気の宵闇に「彼女」は怯えた。

「……これは、何……? 寒い……」

「ロストライフの夜だ。ロストライフ化した地域では頻繁に起こるらしい。実際には、シャンデリアによる気象操作と、局地的な磁場変動、それにリバウンドの斥力による重力崩壊が合わさった……言っても分からないかもしれないが、端的に言えばこの世の地獄だ。人が生きるようにはできていない」

 白い息を吐き、「彼女」は突然の寒空の下で震え出す。遠からず迎えるであろう死を予見したその時、名無しはコートを放り投げていた。

「彼女」はそれを引っ掴み、必死に体温を保とうとする。

「……不思議なものだ。つい数分前には死に行こうとしていた者が、今は生きるのに必死、か。だが、それが人間なのだろうな。割り切れていない、不条理に対しての怒りと悲しみに打ち克つ勇気を、か。……まだまだ私は弱い。貴様が死ぬのならば、ナイフでも投げて寄越すのであった。それをコートなど……温情にも過ぎる。だが、そうでもないか。まだその手は拳銃を手離していない」

 その段になって「彼女」は拳銃を握り締めた指先が硬直していることに気づいていた。もう一方の手で引き剥がそうとしても凍りついたように離れない。

「片手は死を望み、片手は生を望む、か。歪なるは人の常、だな。だが選択肢でもある。私が撃墜されれば、迷わず自害しろ。そうしたほうが潔い、というのもある」

 堕ちた夜より召喚されたのはまたしても黒カラス――否、彼の言葉を借りるのならば《バーゴイル》、という人機。

 空から放たれた命を啄む悪鬼へと、《O・ジャオーガ》と共に名無しは立ち向かおうとでも言うようであった。

 その背にはかけるべき言葉も見当たらない。

 白亜の《O・ジャオーガ》の頸部より彼は再び、戦地へと舞い戻ろうとしている。

「……あなたは……」

「何も言うな。貴様に、何も言って欲しくないのだ。……異国の女よ。語るべき口を持つのならば、その言葉で希望を紡ぐか、それとも絶望を奏でるかは自由。……だが、その身が乙女であるのならばせめて、生きている間くらいは諦めてくれるな。それが生き意地の汚く、この世で抗い続ける敗北者の、ただ唯一の抗弁だ」

《O・ジャオーガ》へと搭乗した途端、彼の巨神は舞い上がり、一つ、また一つと黒カラスともつれ合っていく。

 巨大なる神の武装である棍棒を振り翳し、闇の誘い手の頭部を挽き潰し、胴体を薙ぎ払う。しかし黒カラスたちも負けず劣らず、《O・ジャオーガ》にしがみついてきた。

 まるで死の影そのもの。

 生者を絡め取り、死で染め上げようと言うのか。

 だが《O・ジャオーガ》より放たれた蛮勇の雄叫びが、闇の呼び声を蹴散らしていた。

『――さぁ、来い。黒将の残滓よ! ここに! 負け続けることに意義があると叫ぶただの名無しが、待っているぞ! 永劫たる死を求めて!』

 黒カラス――《バーゴイル》たちの攻撃が激しくなる。純白の装甲も焦げ付き、ところどころが剥げ落ちていく。それでも留まることを知らないかのように、棍棒を叩き下ろし、剣の勢いを灯らせた一撃を返す刀で打ち立てていく。

 既に戦士の祈りは掻き消え、神はこの地を見離したと言うのに――。

 彼の者は挑み続ける。

 無謀なる死の足音に抗い、無意味たる己の生を嗤いながらも決して損なうことはない。

 そこにあったのは、ただ一つの、命の灯火なり。

 命一つを燃え盛らせ、名前さえも名乗らない瞑目の重戦士はただ、太刀を誇るのみ。粉砕の刃が掴みかかった《バーゴイル》の心臓を貫いた。

 青い血潮が舞う地獄の空間で、その白亜の装甲を返り血で染め上げた「王者」が、「鬼」のように世界を見据える暗礁へと睨み返していた。

 ――まだこの世には価値があるのだと。

 そう確信して止まないかのように。

 その価値を取りこぼさぬよう必死で抗い、決死に己の生を刻みつける。黒カラスの軍勢は死への陶酔そのものだが、《O・ジャオーガ》はただ一刹那にかける生き物の覚悟だ。

 決して死に酔ってはならぬ。

 決して、生に諦めてはならぬ。

 そして決して、この命に涙するなかれ。

《O・ジャオーガ》の誇る回転式棍棒が最後の黒カラスの頭蓋を打ち砕いていた。

 その時には《O・ジャオーガ》も満身に傷を受けている。

「彼女」は駆け寄ろうとして、その手に銃があることを感知していた。

 膝を折った《O・ジャオーガ》に「彼女」は銃を虚空へと向け、そして何度も引き金を絞る。

 これが生への渇望だ。これが自分の生きる証だ、とでも言うように。

 ――死に最も近い武器で、生を謳い誇れ。

 弾が尽きた時、手は自然と銃を手離していた。

 足元に落ちた武器はもう要らない。

 戦士を慰めるのに、武器を持ったままではいられないからだ。

 しかし、ようやく準備が整ったその時には、《O・ジャオーガ》は噴煙を棚引かせ、空を睨んでいた。

 飛び立とうと言うのが分かった。旅立とうとしているのが窺えた。

 この地を捨て、また別の場所へと。また別の者を救うために。

「彼女」にはその道筋を止めるだけの言葉があった。「彼女」は紛れもなく、乙女であったのだから。

 だが、戦士の背中を見送るのに、いつだって女は少し言葉足らずだ。

 純白とは言い難い姿となった《O・ジャオーガ》を、「彼女」は拳銃を手離した手で、精一杯手を振って見送っていた。

 涙は止め処なかったが、それでも。くしゃくしゃの泣き顔でも、もう明日は泣かない。

「……泣くもんか」

 誓った「彼女」の胸に突き立つかのように、光の残滓を降り積もらせつつ《O・ジャオーガ》は飛び去っていく。

 戦士を、この地に縫い止めるのは相応しくないだろう。

 名無しがいつか誰かに、誇りを持って名前を名乗れるのかどうかは、今の「彼女」には分からない。

 ただ、祈るばかりだ。

 自らの生でもなく、神への捧げ物でもない。

 平穏なる世界への夜明けを――。切り拓くのは、諦めないという、誓いのみであった。

どこか掠れたような曇天より、灰色の雨が降りしきる。その雨の中で、白色の巨神は濡れていた。

​著・シチミ大使

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