26 ブロッケンの影を討て

​著・シチミ大使

『こちら本部基地より、コード72Mへ。通信環境の是非を問いたい』

 その言葉に無線を取り、言葉を返していた。

「こちら72M。問題ない。現在、輸送機は敵当該基地の上空を通過中。降下位置まで、三分」

『了解。輸送中の迎撃に留意されたし』

 輸送中の迎撃、と胸中に繰り返し、彼女はカニバサミの髪留めをいじっていた。狭く取られたコックピットにはこの任務に際して増設された無数の装備がモニターされている。

 エルニィ曰く、「殲滅作戦に必要な措置」とのこと。

 ――これでも大人しいくらいだよ。本当ならボクのブロッケンで行くのが望ましいんだけれど、現状のアンヘルの兵力で極秘任務に相応しいのはキミだけだし。

 不承ながらにそう口にしたエルニィの横顔を思い返し、髪留めをピンと指で弾く。

 血続専用トレースシステムによって無人輸送機が上空を横切っていくのを、まるで他人のように観測することができる。これはキョムの人機が持つ特殊性を加味した結果らしい。

 如何に雑兵の《バーゴイル》とは言っても、それでも現時点でのレーダー把握を潜り抜け、突然に現れる敵のステルス性能は折り紙つきだ。

 アンヘルの武装だけでは足りない、と進言したのはエルニィの判断である。

 お蔭で自分の人機――《ナナツーマイルド》には平時の装備ではない特殊兵装が敷かれていた。

 機体を保護する外套と、そして空中姿勢制御用のウイングスラスター。副次武装であるリバウンド武装は敵機が近年南米で装備が確認された、実体弾を跳ね返す武力である「R装甲」を保持している場合には有効である。

 その時、突然に通信に個別回線が割り込んでいた。浮かび上がったポップアップがエルニィの介入であることを告げている。

「何?」

『ゴメンね、ルイ。一人で行かせるのは南から何度も反発を受けたんだけれど、今回ばっかりはさ……』

「いい。私もこれが性に合っているとは思う」

『近接兵装を持つ《ナナツーマイルド》の発展案をボクが練るなんて思わなかったけれど、でもさつきや赤緒じゃ仕損じる可能性も大きい。それに、ボクのわがままだから、これも、ね。血続としての戦闘経験のあるルイなら適任だと思ったんだ』

 ルイはその言葉に冷え切ったコックピット内で操作コンソールを開いていた。会敵予測まであと数十秒。

 その間、彼女は切り出された言葉を思い返していた。

 

「いやー、ちょっと暖かくなってきたねー。南米はもっと熱かったけれど、それでも日本の風土ってのも慣れないや」

 軒先で茶をすすっているところに、エルニィが隣に座り込む。ルイはどこ吹く風でそれを無言で認めていたが、もじもじしているエルニィの様子に口を挟んでいた。

「何? いつもらしくない」

「あっ、分かっちゃう?」

「私に用がないのにあんたは話さないでしょ。何の用なの? 赤緒も買い出し、南はどこかに用があるって出払っている。それに、他のアンヘルメンバーの目もない。……何が目的?」

「嫌だなぁ、目的なんて。ボクにやましいところがあるみたいじゃん」

「ないの?」

 詰問にエルニィは誤魔化すのも限界だと肩をすくめていた。

「……南が難しいって思うわけだ。ルイ、折り入って頼みがあるんだ」

 エルニィの声音は平時とは異なり少しばかり緊迫している。ルイはこの話し合いが普段の何でもない会話では留まらないことを察知していた。

「面倒ごとなら断るけれど」

「まぁ、面倒ごとの一種だよね。でも、ボクにとっちゃ、ちょっと切実。話せる人間が限られているから」

 エルニィは柊神社の庭先で集まっている鳩の群れを目にしていた。ルイは視線を動かさずに応じる。

「人機の関係?」

「鋭いなぁ。ま、ボクらってよく考えたらもう三年の付き合いだからね。分かっちゃうかぁ……」

「もったいぶらないで。何がどうなったの」

 エルニィは言葉を弄するのも無駄だと判断したのか、単刀直入に切り込んできた。

「第三国。分かるよね? 力のない国家だとか、米国やロシアに比べればまだ全然、人機だとか軍事の恩恵を受けていない国家」

「それが何?」

「つい三日前のことなんだけれど、お偉いさんに呼ばれちゃってさ。第三国にボクのトウジャの設計図……ブロッケンやシュナイガーの基礎設計が流れたって情報があったんだ」

《ブロッケントウジャ》と《シュナイガートウジャ》は共にベネズエラ軍部が開発した《トウジャCX》に端を発した本格戦闘用人機だ。トウジャタイプの特徴として拡張性の高さとその速さ、機動力が上げられる。

 自分もダビングの指揮下、軍部にいた頃にあらゆる人機の性能試験の一環としてトウジャタイプの試験は行われたことがあった。ゆえにそれなりに人機への知見は持ち合わせているつもりだ。

「情報が流れただけじゃないんでしょ」

「まぁね。試作型トウジャタイプ……ブロッケンとシュナイガーに続く、第三のトウジャが秘密裏に建造され、そしてその第三国に輸入された、という情報が飛んできた。そんでもって、そういうものの対策方面は誰も責任を取りたがらないから、ボクに一任するってさ。……参っちゃうよね。勝手に造っておいてその責任は開発者に全投げなんて」

 嘆息をついたエルニィにルイは尋ね返す。

「その責任だとか、そういうのの所在は知らないけれど、でもそれは事実なんでしょ」

「そう、事実。新型トウジャタイプが現状の国家間のパワーバランスを崩す可能性があるって、まぁ米国のお偉方は心配なんだろうねぇ。それに、前回、ダークシュナイガーのような機体が出てきた。あれもメルJに話を聞いたところによると、グリム協会……まぁ、技術者の集団みたいな連中が開発した可能性があるって言うんだ。設計図が流れただけでも危ないし、もし第三国にキョムやグリム協会が手を貸したら……」

「内紛が加速する。あるいは、国家転覆、ね」

 落ち着き払って応じたルイはせんべいをかじっていた。エルニィも肩を落としてせんべいを頬張る。

「この極東国家じゃなかなか実感しづらいけれど、世界は混迷の中にあるんだ。人機っていう、大きな力が意味を成してきた上に、ロストライフ現象は今も世界中で起こり続けている。……見通しが甘かったのはそれもかな。日本にキョムが陣取るんなら、相手の視線を釘付けにすれば、っていう考え。それがうまくいかなかったんだ。キョムはキョムで、《バーゴイル》を含む新型人機を、涼しい顔で量産し続けている。南米も酷い有様らしいよ。青葉も……大丈夫なのかなぁ」

 青葉の名前が挙がり、ルイは僅かに表情を翳らせていた。南米で何度も衝突し、そして何度もその絆を確かめた、《モリビト2号》の操主――。

「青葉はきっと平気よ」

「そうならいいんだけれどさぁ……。ま、ルイに頼みたいのは」

「第三国に流れたトウジャの破壊でしょ。何でそんなに申し訳なさそうなの?」

「いや、だってこれ……一応はボクの問題だし。できればその破壊ミッションにもボク単独で向かいたいんだけれど、今の日本を離れるわけにはいかない。敵は確実に強くなる。そんな時に、アンヘルの頭脳が欠けたらお終いだ」

 誇張でも何でもなく、エルニィはメルJの戦いでキョムにデータを解析された、と言っていた。その結果がいつもたらされるのかも分からない現状では、日本を少しでも離れることさえも下策なのだろう。

「ルイ、頼まれてくれない? 《ナナツーマイルド》なら、敵の本拠地に仕掛けられる。もうそのプランも練ってあるし、何なら追加武装だって、既に――」

 ルイは立ち上がる。エルニィは肩をびくつかせた。

「それ、南には……」

 彼女は後頭部を掻いて頭を振った。

「……申し訳なくって、言えてない。言うとしてもキミがうんと頷いてくれてからだと思う。……ずるいかもだけれど」

「いいわ。やる」

 こちらの反応が想定外であったのか、エルニィは素直に驚愕しているようであった。

「いいの? 結構な無茶だよ? 二機で一機の扱いである《ナナツーマイルド》と《ナナツーライト》の連携を外して、単独で戦えって言っているようなもんだし……。断ってもルイは悪くない」

「でも、他にできる人間がいないんでしょ? だったら、やる。出発日時を教えて。《ナナツーマイルド》で日本を発つわ」

 その決定が彼女からしてみればあまり望ましくなかったのか。それとも、ここまでハッキリ言うとは思っていなかったのか。エルニィは腕を組んで呻る。

「……一応聞いておくけれど、それってさ。南米で青葉と対抗していた頃みたいな、ああいう考えで乗ろうって思ってる?」

 その問いかけにルイは首を横に振っていた。今さら操主としての格にこだわっているわけでもなければ、誰かと競うわけでもない。

 これは、単純に――。

「知りたければご自慢の頭脳で考えれば? 天才なんでしょ」

 そう投げるとエルニィは唇を尖らせた。

「天才でも、見えないものがあるんだ。心とか、ね」

 

 会敵予測までの時間が三十秒を切ったところで、不意に熱源探知のアラートにルイは無人輸送機の中で身じろぎする。

『この反応……! 《バーゴイル》だ』

 やはり張られていたか。ルイは丹田に力を込め強く言い放つ。

「強制射出!」

 直後、放たれたプレスガンの光条が無人輸送機を射抜いていた。爆発の炎に包まれる輸送機を背にして、外套を纏った《ナナツーマイルド》が急速降下する。

《バーゴイル》二機が追撃の火線を見舞おうとしたのを、《ナナツーマイルド》は挙動した小型拳銃で応戦していた。

 照準は的確に。空気圧に煽られる中で敵の銃火器を狙い澄ます。誘爆した《バーゴイル》は武器を手離し、そのまま離れていった。

 恐らく、公式にはこの地でキョムの活動は発表されていないのだろう。追撃の手は甘かったが、問題なのは降下予測地点に存在する銃座である。

『基地上空に到達! 狙い撃たれるよ!』

「そんなヘマ、しないっ」

 背面に装備したウイングスラスターが稼働する。六枚の羽根を一斉に開き、制動用推進剤を焚いた《ナナツーマイルド》はタイミングをずらし、手にした携行火器で視野の中にある銃座へと攻撃を見舞う。

 こちらを狙っていた銃座が粉砕され、《ナナツーマイルド》は着地の瞬間、足裏に装備しておいたリバウンドブーツを起動させ、重圧を最低限に押し留めていた。

 そのまま滑るように敵基地へと進軍する。

 無論、それなりの障壁は予測されたが、思ったよりも火線は少ない。加えて《ナナツーマイルド》を敵は捉えらない理由があった。

 陸戦に入るなり、外套を開き《ナナツーマイルド》の機体が空間に溶ける。

「光学迷彩……展開」

 これもエルニィの用意した武装の一つ。軽装の《ナナツーマイルド》ならば、血塊炉のエネルギー消費を抑えて、敵からのレーダー捕捉を完全に無視できる装備が実装可能であると進言された。

 名を確か「ステルスペイント」。通常人機ならばエネルギー消費の激しいこの武装の採用に至ったのは、ひとえに《ナナツーマイルド》の低コストが理由である。

 モリビトタイプならば確実に足が潰れ、ただ単にパワーと加速度を奪われるだけのこの兵装。ナナツータイプの汎用性を極限まで活かした代物であろう。

 光学迷彩と言っても間に合わせだ。敵が熱源探知に切り替えれば即座に捕捉されるが、相手の防衛ラインにそこまでの機能は存在しない様子。

 銃撃と地上展開する旧式人機が道を阻んだ。

 何の因果か防衛ラインに位置するのは《ナナツーウェイ》の改修機たち。かつての自分の愛機と同型機へと肉薄し、《ナナツーマイルド》は剣を払い上げていた。

 頭部と接続されているブレード――メッサーシュレイブはリバウンドを纏うことによりこの世に斬れぬものはない。

 腕を寸断し、次いで胴体の血塊炉へと一閃を叩き込んだ。うろたえ気味の陣営にルイは、素人だ、という判断を下す。

「敵の陣営をクリア。このままトウジャの破壊任務へと継続――」

 その言葉尻を引き裂いたのは敵基地よりスクランブル出撃した機影であった。

 X字の眼窩に、赤銅色のカラーリングの施された疾駆の機体が跳ね上がり、姿勢を沈めさせる。

 その攻撃の予兆にルイは咄嗟に機体を後退させていた。

 アームレイカーを引き、フットペダルを踏み込む。それでも、敵のほうが遥かに速い。追いつかれた《ナナツーマイルド》は瞬時の判断で外套を盾にしていた。

 振るわれたのはシュナイガーの標準装備であるところの大剣、スプリガンハンズと同系統の近接武装である。

 外套が引き裂かれ、光学迷彩が剥がれる。ルイは即座に外套を脱ぎ捨て、《ナナツーマイルド》に構えさせていた。

「……目標が炙り出された。このまま破壊任務を実行する」

『気を付けてね、ルイ。そいつ、シュナイガーとブロッケンのデータを両方持っている。さしずめその機体……ブロッケンの影――《ブロッケンシャドー》とも呼ぶべきか……』

《ブロッケンシャドー》は背面に装備した高出力推進装置を稼働させ、《ナナツーマイルド》へと接近戦を挑んでくる。負けていられない、とルイは剣を引き抜いていた。

 リバウンドの刃同士が干渉し合い、激しいスパークを散らせる。

 共に反重力の恩恵を受けた機体が弾かれ合うかのように大きく後退した。ルイは《ナナツーマイルド》に姿勢を沈ませる。

 背部ウイングスラスターが展開され、こちらの加速を手助けした。

「ファントム!」

 掻き消えた《ナナツーマイルド》の姿は直上――確実に《ブロッケンシャドー》を取れる位置にありながら、相手は咄嗟の判断か、地を激しく蹴り上げ、その反動で浮かび上がった脚部を利用し、足裏に仕込んだバーニアを向けた。

 まずい、と機体をずらしたルイは瞬間的に焚かれたバーニアの輝きが《ナナツーマイルド》の減殺フィルターの閾値を超え、コックピットに焼きついたのを感じ取る。

「……足裏のバーニアを加速じゃなくって眩惑に使うなんて……」

 それ相応の操主である予感に、ルイは肌を粟立たせる。剣を払い、敵人機へと肉薄した直後、相手はスプリガンハンズを振るい上げていた。こちらの武装とぶつかり合い、何度か干渉波が舞い遊ぶ中で、ルイは腹腔に力を込め、軽業師のように華麗に敵機の背後を取っていた。

「軽装の《ナナツーマイルド》を、嘗めないことね」

 通常人機との戦闘では不可能な間合いで、《ナナツーマイルド》は翻弄できる。背後を取ったこちらに対し、敵は振り返り様の斬撃を見舞おうとして、それはゼロ距離で放った銃撃に阻まれていた。

 両肩に装備されていたリバウンド重火器が火を噴き、《ブロッケンシャドー》を押し返す。敵はうろたえ気味に後ずさってから、スプリガンハンズを下げていた。

 抵抗の意思はもうないのか、とルイは剣を構え直す。

「……殲滅任務だもの。《ブロッケンシャドー》は破壊する」

 強く言いやったルイに対し、敵はなんとコックピットブロックを開け放っていた。

 露になった敵操主の姿は――。

「……エルニィ?」

 そんなはずはない、と思いつつも、ルイは敵操主の姿に戦慄する。エルニィの似姿は無感情な面持ちのまま、《ブロッケンシャドー》で超接近戦を挑む。

 その相貌が映し出され、ルイは困惑していた。振るうはずの剣は、この距離では絶対の威力を確約するはずであったのに、指先が凍りついたかのように動かない。

『ルイ? どうしたの? 返事をして!』

 エルニィの通信が耳朶を打つが、ルイは決断できずにいた。このままどう見てもエルニィにしか見えない影を引き裂くのが正しいのか。それとも、ここで決断できず攻撃を受けるのが正しいのか。

 エルニィはデータを取られた、と言っていた。

 それがこのような結果を生み出すなど思いも寄らない。

 至近距離で弾けた迷いに、ルイはスプリガンハンズが深々と《ナナツーマイルド》の血塊炉付近を突き刺したのを関知する。

 このまま諸共自滅に追い込む気か。

「……冗談じゃ、ない」

 ウイングスラスターを最大出力に設定し、ルイの《ナナツーマイルド》の眼窩に光が宿る。

「こんなところで……負けない、負けたくない――」

 帰るのだ。何事もなかったかのように無事に。南とみんなの待つ、あの柊神社に。

 だから……迷いは振り切る。

「負けられないのよっ!」

 両手に剣を保持し、《ナナツーマイルド》は回転軸を加えた浴びせ蹴りを敵の横腹に見舞った。よろめいた相手へと一閃。次いだ二の太刀が敵の片腕を斬り落とす。

 だらんと両手を下げた相手にルイは荒く息をついていた。

 敵は無感情な眼差しのまま、スプリガンハンズを突きつける。

 ルイは腹腔から雄叫びを上げた。《ナナツーマイルド》の機体が呼応し、敵へと加速する。相手はスプリガンハンズを《ナナツーマイルド》の頭部コックピットに向けて突き出していた。

 一閃が交差し、人機同士がもつれ合う一瞬――。

《ナナツーマイルド》は片目を潰されていた。コックピットを貫通した敵の切っ先がすぐ傍を掠めている。

 血塊炉を貫いたこちらの一撃を、ルイはそのまま引き抜いていた。

 敵が膝を折り、《ブロッケンシャドー》が沈黙する。刃を突きつけ、ルイは口にしていた。

「……撃たせないで」

 精一杯の慈悲のつもりであった。あるいはこれ以上、自分が傷つかないための。

 しかし、敵から発せられた信号にエルニィの声が弾ける。

『自爆する気だ……! 離れて! ルイ!』

 その言葉にルイは《ナナツーマイルド》を離脱させる。距離を取ってから、ふと感じた胸のささくれは、ここでエルニィと同じ顔をした彼女に、何も手を差し伸べないでいいのか、という逡巡であった。

 造られた命、そこに価値などないのかもしれない。それでも――。

『ルイ? 何やってるの? 自爆するって!』

 ウイングスラスターの閾値まで推力を上げ、《ナナツーマイルド》が敵操主を救わんと手を伸ばす。

 その手がコックピットに触れる前に、相手は僅かに……寂しく微笑んだのが大写しになった。

 直後、空間が鳴動し、《ブロッケンシャドー》はこの世界より存在の証明すらなく、爆炎に包まれていた。

 

「あっ、ルイさん。どうしたんですか? 頬っぺた……」

 庭掃除をしていた赤緒の指摘に、ルイはそっぽを向く。

「さぁ。どこかで切ったんじゃないの」

 べ、と舌を出す。赤緒はどこか所在なさげに微笑むだけであった。

「えっと……怪我なら軟膏がありますので、使ってください。……ルイさんにはこれ以上、怪我をして欲しくないですから」

 そういえば、日本に来て真っ先に出会ったのは赤緒であったか。あの時にも自分のことを心配してくれていた。

「赤緒……。もし、遠い異国の地で、自分の影が、似たような人間がいたら、あんたはどうするの?」

 詮無い質問であったのかもしれない。それでも、問わずにはいられなかった。赤緒は頬を掻いて思案を巡らせる。

「……もし、そんなことがあっても……幸せになってくれれば、それでいいんじゃないでしょうか? 多くは……求めちゃいけない気がします」

 多くは求めない、か。ルイは最後の最後、微笑んだ彼女の相貌を決して忘れない。忘れてなるものか、と感じていた。

「赤緒もたまにはまともなことを言うのね」

「た、たまにはですかぁ……。そうかなぁ……」

 今は信じられる場所があればいい。ここが、自分が幸せになれるだけの、居場所なのだから。

軒先で茶をすすっているところに、エルニィが隣に座り込む。ルイはどこ吹く風でそれを無言で認めていたが、もじもじしているエルニィの様子に口を挟んでいた。

​著・シチミ大使

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