ふと、目に留まった姿に赤緒は立ち止まっていた。 「あれ……ルイさん……」  どうしてなのだか、ルイは境内の奥に縮こまり、その顔を伏せていた。  まさかどこか悪いのだろうか。歩み寄った赤緒に、ルイがびくりと肩を震わせる。 「……その足音、赤緒ね」 「あのぉ……何かあったんですか? 南さんと喧嘩でも――」 「それはないから、放っておいて」  いつになく冷たい声音であるが、どこかその言葉振りは平時の完璧さを失っているように思えた。  赤緒は何か特別なことが起こってしまったのでは、と屈んで勘繰る。 「何かあったんですよね……? いつものルイさんじゃないですし……」 「何もない。いいからあっち行って」  ここまで来れば、少しばかり訝しむ。そっと手を伸ばして肩に触れた瞬間、ルイはばっと後ずさっていた。  その頬っぺたが――いつになく膨らんでいる。 「えっと……ルイさん? 頬っぺた、赤いですよ?」 「……これは、そう、何でもないの。布団に頬っぺたを押し付けていたら、こうなっただけ」  論調は極めて平静を装ってはいるが、赤緒はその意味するところを何となく理解していた。 「……口の中、見せてください」 「嫌よ。何で赤緒なんかに……」 「見せられない、ってことですか?」  問い詰めたこちらにルイは僅かに気圧されたようである。 「……何でもないから、これだけは」 「駄目ですっ! 口の中、あーんしてください!」  厳しく言いやったためであろうか、ルイは観念して口を開ける。  思った通り、奥歯に黒い染みがあった。 「……ルイさん? これって虫歯、ですよね?」 「違う。分かってないわ、赤緒。これは南米生まれ特有のものなのよ。断じて虫歯なんかじゃない」  強情に首を振るルイに赤緒はふんと息をつく。 「じゃあ、南さんにも説明できますよね? 南米特有なら」  踵を返しかけた赤緒へと、ルイはむんずと肩を掴む。 「……南に言ったらただじゃおかない」  いつもなら、この恐怖に負けてしまう赤緒であったが、今回はことがことだ。 「……もうっ! いっつもお菓子をつまみ食いするからですよっ! 虫歯は放っておくと駄目なんですから、南さんには説明させていただきますっ!」  振り切ろうとしたこちらにルイは軽業師のように掴んだ一点を基点として躍り上がり、自分の眼前に降り立つ。  その曲芸じみた動きに放心した隙を突いて、ルイは逃げ出していた。 「あっ! 待って! 待ってください、ルイさーん! 虫歯は、放っておくと大変なことになるんですよーっ! それに! そのままじゃ、お菓子は抜きなんですからぁーっ!」  大声で口にした事実にルイが硬直する。その隙を赤緒は見逃さない。 「……聞いてましたよね? 立花さん、それに南さんも」  軒先で茶菓子を頬張っていた二人が、それぞれに手を振る。 「まぁねー。それにしたって、ルイー。もしかして歯医者が怖いの?」  エルニィ特有の挑発に負けず嫌いのルイは張り合う。 「馬鹿を言わないで。何が怖いものですか」 「あっ、言ったねー。じゃあ、まずはボクが見てあげよう」  歩み寄ったエルニィがルイの口をこじ開け、ふむふむと視診する。 「あちゃー、これは結構根深いねー。神経まで行っちゃってるんじゃない? だから頬っぺた膨れてるのか」 「……神経まで?」 「うん。そうだね。これだと問答無用で、ドリル行きかな」  応じたエルニィにルイはきょどきょどと周囲を見渡し、その場に蹲ってしまう。 「……嫌よ。歯医者には絶対に行かない」 「何言ってるのさ。操主のメンテナンスもメカニックの仕事のうちなんだから。歯医者くらいは行く! さぁ、もう観念して――」  その肩を引っ掴んだエルニィの腕をひねり返し、ルイは体重移動させてエルニィを投げ飛ばす。  血続の本気の武芸にエルニィも負けてはいない。  ほっ、と声にしたかと思うと捩じ上げられた身体へと咄嗟に逆回転をくわえて無事に着地してみせる。 「逃がさないよ、ルイー……。そういや、南米じゃ、追っかけっこはボクのほうが、得意だったよね……」 「……メカニックの癖に、頑丈……」  じり、と戦闘姿勢に入る二人に赤緒は南へと進言していた。 「南さん! やめるように言ってくださいよぉ……。このままじゃ二人とも、怪我しちゃう……」 「いやー、駄目よ、赤緒さん。ルイはなんせ、歯医者嫌いじゃそんじゃそこいらには負けないからねー。元々、歯を磨くなんて風習とは縁遠かった地域だから、勝手に治すくらいの気持ちだったんだけれど、日本に来て、おいしいものも多かったらから、油断しちゃったのかもね」 「いや、油断しちゃったとかじゃなく! そもそも、歯医者には行かせてくださいよ。それに、喧嘩が始まっちゃいますよ?」  指差した赤緒に南は手を払って快活に笑う。 「駄目だって! ルイとエルニィの喧嘩にゃ、私も割って入れないわ。あの子たち、超次元の喧嘩になっちゃうからねー」 「超次元のって……」  困惑している間にも事態は変容する。  ルイが踏み込み、エルニィへと打撃を見舞おうとするが、エルニィは最小限のステップでかわし、ルイを捕縛しようとする。だが、すぐさま後退したルイは砂利を蹴り上げ、エルニィの視界を潰そうとした。  無論、エルニィもただ闇雲に飛び込むわけではない。 「目潰しは想定内!」  姿勢を沈め、ルイの懐へと入ったエルニィは蹴り払いで姿勢を崩そうとした。しかし、ルイは跳躍し相手の肩口を足場にしてその一撃を逃れる。 「んなろっ!」  回り込まれる前に、エルニィはアルファーによる身体強化の蹴りを浴びせにかかるが、それを既に予期してルイは地面を蹴り、射程外へと逃れていた。  一進一退の攻防に、二人とも呼吸が荒れ、汗が滲んでいる。  ――が、それを終わらせたのは意外な人物であった。 「何やってんだ、てめぇら」  ぺしっ、とお盆でルイの後頭部を叩いたのは両兵である。  途端、ルイは赤面して後ずさる。その隙だらけの身体へと、エルニィは飛び込んでいた。 「今だーっ!」  エルニィがボディタックルを仕掛け、ルイと共にもつれ込む。その様子を両兵は呆れ返って目にしていた。 「……おい、立花。神社の境内で大立ち回りなんてして、何のつもりだよ」 「ルイが逃げちゃうんだよー。歯医者に行きたくないって!」 「……離しなさい。ポンコツメカニック……」 「ぽ、ポンコツって言ったなー! 両兵! ルイを歯医者に連れて行ってよ!」 「あー、それがいいわ。両、どうせ暇でしょ? ルイを歯医者に連れて行ってあげてよ」  軒先からの南の声に両兵は渋面を作る。 「オレが? 何でてめぇのガキを……」 「だって、両なら抵抗しないでしょ」  訝しげに視線を振った両兵に、ルイは頭を振る。 「……絶対に嫌」 「……とか言ってっけど、オレから見ても頬っぺた、腫れてっぞ? 虫歯くれぇ、血続の再生力で何とかならねぇのか? 黄坂」 「血続って万能じゃないからねー。あんたみたいに不死身ってわけでもないのよ」 「オレぁ、不死身じゃねぇよ! ……にしたって、何で歯医者如きが嫌なんだ? あんなもん、ちょっと口開けてりゃ終わる話だろうが」 「人によって得手不得手はあるものなのよ。ねー、ルイ?」  どこか茶目っ気たっぷりにウインクした南に、ルイは歯噛みする。 「……南、さては……」 「あのぉ……いい加減、行くのなら行きませんか? 境内でバタバタしていても始まらないので……」  取り成した赤緒に、それもそうだ、と両兵は首肯する。 「ほれ、とっとと立て。あーっと……、歯医者ってどこにあるんだ?」 「あのっ、私が案内しますから! ルイさん、行きましょう」  こちらの説得にようやく応じる気になったのか、それとも状況が変わったからか。ルイはどこか消沈したように力なく頷く。  その手がぎゅっと自分の手を握り返していることに赤緒は軽い驚愕を覚えていた。  ルイが頼ってくれていることなど、よくよく考えれば今までなかった。  その分、期待に応じようと言う精神が働いたのだろう。赤緒は鼻息を荒くして、よしっ、と前を向く。 「行きましょう! 小河原さんも!」 「オレも? 何でだよ。歯なんて悪かねぇぞ?」 「……本当に? 小河原さんだって暴飲暴食しているじゃないですか。いくら再生力が桁違いでも、何かあるかもしれませんよ?」 「ねぇって。そうだろ、黄坂」 「さぁ? それは分かんないかもねー。肋骨とかあばら折っても平気かもしれないけれど、案外両ってば、歯医者が苦手だったりして」 「ふっざけんな! 歯医者なんて屁でもねぇ。行くぞ、柊と黄坂のガキ。あいつに健康な歯を見せつけて、眼に物見せてやろうぜ」  どうやら挑発に乗っていることには完全に度外視しているらしい。先導する両兵に赤緒はルイの手を引いて走っていく。 「ま、待ってくださいよぉ……。小河原さん、歯医者って、南米にはなかったんですか?」 「主治医みたいなジジィはいたが、そいつも案外アレでよ。まぁ、ボケ老人にゃ歯なんて見てもらった覚えはねぇな」  両兵ならば万年、歯医者なんて必要なさそうではあるが、一応、物は試しだと、赤緒はその眼前へと回り込んでいた。 「……小河原さん。一応見ておきます。口を開けてください」 「……嫌だっつうの。メンドくせぇ……」 「小河原さん! もしかしたら小河原さんも、歯医者、怖いんじゃないんですか?」 「バカ言ってんじゃねぇよ! どうとでも見やがれ!」  口を開けた両兵から漂った口臭に、赤緒はうっ、と顔を背ける。 「……もうっ。またお昼からお酒飲んでいましたね……。えっと……真っ黒な歯が何本か見えますけれど……」  その言葉に両兵は歯を閉じて、目を白黒させる。 「……マジか」 「本当です」 「……なぁ、黄坂のガキ。別にいいよな、歯医者なんて行かなくっても。死にゃあしねぇよ」  態度がコロッと変わった両兵に何度も頷くルイへと、赤緒は二人分の怒声を響かせていた。 「駄目ですっ! もうっ、お二人とも、虫歯の怖さを分かっていませんね? 食べたら磨く! 基本中の基本ですよ!」 「……操主として未熟なヤツに言われたかねぇよ」 「同感」  それに関しては痛いところを突かれたと思いつつも、赤緒はたじろがなかった。 「……歯医者に行きますよ、二人とも」  手を引っ張ると、両兵もルイも渋々追従する。 「……なぁ、歯医者って、どんなのか知ってるのか?」 「……さぁ」  ルイへと話しかけると、どこか素っ気ない。そういえば二人が改めて話しているところを、赤緒は一度として見たことがなかった。  ――南米からの知り合いのはずなのに……?  思索を巡らせれば巡らせるほど、両兵とルイの関係はよくは分からないが、今は二人とも歯医者に連れていくことが先決だ。  到達した歯医者の表から響き渡るドリルの音に、いつもなら超然としている二人が揃って肩を縮こまらせる。 「……未体験の恐怖ってヤツだな。人機と戦闘しているほうがマシだ」 「……それも同感」  赤緒は二人が逃げ出さない間にさっさと受付を済ませ、待合室で項垂れている二人へと問診票を持ってくる。 「……なぁ、何でこんなに憂鬱なんだ? 別に医者なんて初めてでもねぇのに」 「……分からない」 「二人とも、自分の症状をきっちり書いてくださいよ。痛いところとか、それに色んな項目があるんですね。私、歯医者には行ったことがないから、びっくりです」 「……ンだよ。引率したクセにてめぇも歯医者には来たことねぇのか」 「だ、だって! 私は歯磨きはきっちりやっていますし! 縁がないんですよ、そもそも」 「いいよなー。そうやって優等生気取っていれば」 「赤緒はそういうところは真面目ぶっているわよね」  二人分の糾弾を受け止めつつも、赤緒は二人の問診票を覗き見る。 「……手術に恐怖があるかどうかって項目なんてあるんですね」 「口ン中いじくられるんだから当然っちゃ当然だろ。ほい、書けた」  手渡された項目には「恐怖がある」にチェックが入れられていた。 「……小河原さん?」 「あーもう! うっせぇぞ、柊!」 「ま、まだ何も言ってないじゃないですかぁ……」 「書けた。これでいいんでしょ、赤緒」  差し出されたルイの問診票にも「恐怖がある」にチェックが入っている。 「……二人とも、怖がっています?」 「だから! こんなもんでいちいちビビッてなんざ――!」  その瞬間、高周波のドリルの音響が鳴り響き、診察室から悲鳴のような声が上がる。  その声に三人してびくついてしまった。 「……ンだよ。ビビらせやがって……」 「……大げさなのよ、日本人って」  二人とも平静を装ってはいるが、どことなく落ち着きがない。赤緒は二人の眼前に屈み込み、視線を合わせた。 「……何だよ、柊」 「何なの、赤緒」  赤緒はその瞬間、二人をぎゅっと抱き留めていた。  その行動に二人して面食らっている様子である。 「あの……っ! 怖い思いをしている子には、こうしてあげるといいって、五郎さんから教わったことがあります! だから……」 「……あー、ったく。何やってんだ、てめぇも」 「……本当。赤緒ってば、大げさだし、何よりも変よ」 「なっ――! 変って言われる筋合いは……」 「でも、ちょっとだけ……気持ちはマシになったかも。……ほんのちょっぴりだけれど」  ルイの声に応じるように両兵は立ち上がる。 「よぉーし、歯医者だろうが何だろうが、とっとと済ませて帰んぞ、黄坂のガキ。よくよく考えりゃ、こんなもん、何でもねぇんだが……ちょっとだけ気持ちがマシになったのは、どうやらマジみてぇだ」  両兵の声音を反芻する前に二人が診察室に呼ばれる。  二人の背中を見送りつつ、赤緒は何気なく呟いていた。 「……子供を歯医者に送り出すのって、こんな気持ちなのかな……」  ガラにもなくそう感じてしまったのは、何でなのか。  答えは得られず仕舞いである。  夕食の席についた両兵とルイを視界に入れ、赤緒は焼き魚を差し出していた。 「ルイさんも小河原さんも、二人ともそこまで酷くなくってよかったですねっ」 「だから言ったろ? 大したことねぇっての」 「……赤緒は大げさなのよ、何もかも」  そうこぼしたルイに南は嘲笑する。 「ホントにー? 赤緒さん、正直に言っていいのよ? 両もルイも、泣いたんでしょー?」 「泣いてねぇっての。なぁ、柊」 「泣いてないわよね、赤緒」  二人分の同意に、赤緒は大きく頷く。 「ええ! 二人とも泣きませんでしたね!」 「何だか変なのー。赤緒ってば、何だかお母さんみたいだよ?」  居間でごろ寝しているエルニィの茶化しに赤緒はまごついてしまう。 「おっ、お母さんって……」  照れた赤緒に比して、両兵とルイは何でもない面持ちであった。 「柊みてぇな頼りないんじゃ、母親とは呼べねぇかもな」 「そうよ。赤緒なんて、まだまだひよっこじゃない」 「な、何でですかぁー。それはそれで酷いですよぉ……」 「でもまぁ、二人とも治ったんだし、それも込みで!」  南が手を合わせる。それに倣って、ルイと両兵が口にしていた。 「いただきます」 「腹ぁ、減ってんだよなー。もらっとくぜ」 「もうっ、お二人ともいいですか? 食べ終わったらきっちり、歯磨きしてくださいね?」 「おーおー、分かってンよ」 「何度も言わないで。しつこいわよ」  白米をかけ込む二人に、赤緒も食事に入ろうとして、ふと頬に痛みを感じる。 「痛っ……。まさか、これって……」  頬を押さえた赤緒へと、両兵とルイの二人分の視線が飛ぶ。 「……柊。きちんと歯ぁ磨いても、虫歯ってのはなるらしいぜ?」 「そうね。赤緒がどう歯医者で泣き喚くのか、見物だわ」  迫った二人の影に愛想笑いを返す赤緒であったが、この後どうなったかは、語るまでもない。

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