子供の頃は、何かと万能感が勝っていた気がする。  何をやっても自由、何をされても自由。だから、特に気を利かせたつもりはなかったし、気にかけたこともなかった。  そういうものだ、と飲み込み始めたのは物心ついた時には既にだったのかもしれない。  臆病な自分を持て余すのに、それほど時間はかからなかった。  どうしてなのだろう。  一年前にできたことが、今日はできない。二年前にできたことが、今はまったく見当がつかなくなってしまっている。  そして、子供の頃には覚えられたことが、今は何一つ儘ならなくって自己嫌悪に陥ってしまう。  どうして、何で、なんて愚問だろう。  きっと私は、最初からできない子供だったのだ――。 「あっ、赤緒さん。洗濯物入れておきましたよ」  声をかけると、赤緒は笑顔で応じる。 「本当? さつきちゃん、頼りになるなぁ……。私もさつきちゃんみたいになりたいよ」 「そんな……。私なんて全然……」 「赤緒ー、アルファーの使い方、いい加減覚えてきた? さすがにすっとろくても、そろそろ毎日拝んでいれば恩恵とかあるんじゃない? シントーブッキョーでしょ?」  茶化したエルニィに赤緒はむっと言い返す。 「拝んでいるんじゃありませんっ! しっかり念じていますよ! ……あと、神道とか、ごっちゃですし」 「そうだっけ? まぁ、石の上にも何年? とか、日本人ってコトワザ好きだよねぇ」  エルニィはリフティングしながら華麗に足首に巻いたアルファーを起動させ、身体能力を高めている。これも彼女なりの鍛錬なのだ。何も赤緒ばかりがアルファーの扱いに対して日々精進しているわけでもない。  エルニィは彼女なりのやり方で、日夜訓練を積んでいるのを自分はよく知っている。  メルJの姿を中庭に見つけ、さつきは声をかけようとして、その銃声にびくついてしまう。  メルJは集中していたのか、標的を狙う眼差しはまるで猛禽類のように鋭く、自分のような粗野な人間が立ち入っていいわけがなかった。  南はテレビを見てせんべいを齧っているが、身に染みついた所作で書類を書き留めている。本人にあまり自覚はないのかもしれないが、さつきは南が海を隔てた場所にいる兄に最も近いことを知っている。だから、本当ならば兄の話を聞いていたいのだが、やはりと言うべきか憚られてしまうのだ。  最初の日のように、アンヘルの重要機密だから、でぼやかされることはもうないかもしれない。それでも、もし、南から聞いた兄の像が自分の思っていたのと違った時、果たして耐えられるのか不安で胸が締め付けられる。 「……お兄ちゃんのこと、もっと知りたいのに……」  何も知れない。何も聞けない。そんな状態のまま、月日だけが過ぎていくのだろうか。  確かに操主として少しはマシになれた。自分の愛機である《ナナツーライト》に対しての恐怖心はほとんどない。むしろ、そのコックピットにいると安心さえも覚えるようになってきたほどだ。  女性型の《ナナツーマイルド》とは姉妹機。二機を格納庫の脇でルイがホースを持って洗浄していた。  しかし、ルイの人機洗浄はどこか荒っぽい。しかも、着ているのはまたしても――。 「ルイさん……。それ、私の……」 「さつき。この服、ちょうどいいわね。濡れても問題ないなんて」  さつきはがっくりと肩を落とす。スクール水着に身を包んだルイは《ナナツーマイルド》をホースで荒っぽく洗う。使おうとしていた人機用の特殊洗剤をバケツいっぱいに持ち上げようとしているのを覚えず補助していた。 「手伝いますからっ」 「……別にいいのに」  ルイはデッキブラシで《ナナツーマイルド》の指先を重点的に洗う。さつきも結果的に人機の洗浄を手伝っていた。  しかし、とさつきは指先ばかり洗うルイに疑問符を挟む。 「何で、手ばっかりなんですか? 頭とか、コックピット周りとか……」 「コックピット周りは精密機器の塊だから、あんまり洗うと駄目になっちゃうのよ。《ナナツーマイルド》と《ナナツーライト》はそうでなくとも指先が繊細だから、こうして駆動部に沿って洗ってあげないといざという時武器も持ち上げられないわよ」  澄ました顔で言い放ったルイに、さつきは言葉もなくしていた。 「……やっぱり、南米で鍛えたんですか。そういう、人機の……点検とか」  兄の話題に触れそうで、どうにも我ながら危なっかしい問いかけだ。ルイから聞くのは個人的にはずるいと感じていた。南が話したがないからと言って、ルイから、と言う考えは浅はか過ぎる。  ルイはじっとこちらを見つめていた。翡翠の瞳に射竦められたように、さつきはまごつく。 「ど、どうしました……?」 「別に。……こういうこともあったな、って思っただけ」 「こういうことって……人機を洗ったり……?」 「そう。今は赤緒が乗っている、《モリビト2号》だけれど」  たまに耳にするかつての《モリビト2号》の操主のことであろうか。そういえば、詳しい実態を誰一人として語りたがらない。何かあったのかもしれないと邪推していると、ルイがデッキブラシに込めた力を不意に滑らせていた。  受け止めようとして二人揃ってバケツの水を頭からかぶってしまう。水着であるルイはともかく、自分は普段着だ。  くしゃみを一つしてから、ルイに指差される。 「もう一着、あるんでしょ?」  へ、と言っている意味が分からずに唖然としていると、ルイは川本と書かれたデッケンを指差す。 「水着、一着なわけがない」  あー、と合点したさつきは慌てて駆けていた。 「取って来ますね」 「足元」  ルイの短い言葉に反応した直後、さつきはホースに絡まってすっ転んでしまう。何でこんな目に、と嘆いていると頭上に影が差した。  仰いだ瞬間、頬が紅潮する。  両兵がこちらを見るなり、目を丸くしていた。 「なぁーにやってんだ。人機の洗浄か。気が利くじゃねぇの」 「……自分たちのためにやっているだけで……」  もごもごとルイは語調をはっきりさせない。先ほどまでの鋭い眼差しはどこへやら、両兵とは決して目を合わせようとはしなかった。 「あのっ! おにい……小河原さん、来てたんですね」 「おう。飯たかろうと思ってな。今日の晩飯、何か分かるか?」  内心ではあるが、さつきは少しだけげんなりしてしまう。柊神社に両兵が来る理由は往々にして夕食のたかりだ。  それでも、さつきは来てくれたそれそのものが嬉しいとでも言うように笑顔になっていた。  夕飯の献立ならば自分も得意顔で披露できる一つだ。 「魚の煮つけと、それに天ぷらもあります。今日は五目ご飯だから、おにい……小河原さんもきっと喜ぶかと思って……!」 「おっ、五目ご飯とはシャレてるじゃねぇの。黄坂どこ行った? あいつにちょっと話あンだよ。どうせ居間でせんべい頬張ってんだろうけれどよ」  柊神社に入りかけた両兵を、さつきはこの時、無意識的に制していた。 「あのっ、今は南さん、忙しいみたいなので! 私が代わりに聞いておきますけれど……」 「そうか? でもまー、黄坂じゃねぇと分かンねぇだろうからな。一応はてめぇにも伝えておいて、後からすり合わせって形でも……いいっちゃいいんだが……」  思案する両兵にさつきは気の利いたことを言おうとして、何も言えないことに気づいていた。自分ができるのはせいぜい、夕飯の支度や炊事、洗濯くらい。アンヘルメンバーとしての仕事は実のところほとんどエルニィたちに任せ切りである。  進歩してないな、と自分で自分が心底嫌になってしまう。守られるばかりで、守るだけの力を誇示もできない、どっちつかず……。 「おい、さつき」  だからか、不意に名前で呼ばれてさつきは当惑してしまった。言葉を返しあぐねていると、ピンとデコピンで額を突かれる。  弱い力であったが、不意打ちだったのでさつきは混乱していた。 「なぁーに、戸惑ってんだ。それに……いやに深刻そうな顔してたぜ? そういう顔ってのはよ、この場じゃ似合わないんじゃねぇか?」 「そう、なんですかね……。私ってでも……何もできないばっかりで……」  涙が滲み出てしまう。誰かのために、何かのために行動しようとして、いつも空回り。  どうして、いつからなのだろう。  前よりできなくなってしまった。前よりも足踏みするようになってしまった。  そんな自分がほとほと嫌で、また自己嫌悪。 「えっ……おい。泣くなって! あー、おい、もう……オレが泣かしたみたいじゃねぇか……。こんなの、柊辺りに見つかったらまたメンドそうだな。よし、さつき。夕飯恵んでもらうんだ、何でもわがまま言って来い。今なら黄坂もいねぇし、それなりのことは応じてやれるぜ」  胸元を叩いた両兵にさつきは困惑しつつも、己の中で問い返していた。  わがまま。誰かのためではない、自分のための行動。  そんなことを自分に許さなくなったのはいつからだろうか。物心ついてから? それとも、兄が遠くに行ってから?  あの日、兄に行かないでの一言も言えなかった、あの日の呪縛が、ずっと――?  問いかけて、さつきはいたたまれなくなって、また目頭が熱くなる。それを悟ったのか、両兵は次の瞬間、さつきを抱きかかえていた。  急なお姫様抱っこにさつきは顔が真っ赤になってしまう。 「ちょっ……! 小河原さん……?」 「このままじゃメンドーごとになるのは確定なんだ。落ち着くところまで運んでやるから、ちょっと我慢してろ」  幸いにして誰の眼にも入らず、二人は神社の裏に潜り込む。息を切らした両兵にさつきは言葉を重ねようとして、ふと自分の状態を自覚した。  水浸しの服に、濡れた頬。こんな状態で両兵と顔を合わせられるわけがないではないか。  再び痛いほどの沈黙が降り立つ中で、両兵は問いかけていた。 「……さつき。神社の生活には、慣れたんだよな」  両兵には珍しい凡庸な質問である。ともすればこの沈黙と気まずさをどこかで感じているのかもしれない。さつきは気後れ気味に応じていた。 「う、うん……。みんな、よくしてくれるし……」 「そうか。……なぁ、お前……。少しくらいわがままこいても、誰も文句は言わないんだぜ?」  その言葉にさつきは唖然とする。両兵は後頭部を掻いて言いやっていた。 「立花なんてわがままの塊だ。黄坂のガキはナマイキでよく分かんねぇけれど、わがままなのは事実だろ。メルJのヤツも、あいつだって頭ン中はオレと同じ単細胞。で、柊だが……こいつが一番わがままだな」 「……赤緒さんが?」  その評は意外であった。赤緒は自分を黙殺するタイプだと思っていたのだが。  こちらの表情に両兵は憮然と腕を組む。 「強情なんだよ、あいつ。モリビト乗ってる時もそうなら降りている時も。絶対、言い出したら聞かねぇし、でっかい意地の塊みたいなもんだ。芯みたいなのが硬過ぎて融通が利かねぇ。自分の中の自己矛盾にもケリつけられないのに、それでも進むって意志だけは本物だからな。わがまま放題だよ、アンヘル連中は」  そうぼやきながらも両兵の顔は穏やかであった。きっと、紡いできたのは戦いだけではないのだろう。今まで、様々な人々と会い、ぶつかりそして成長してきたに違いない。  そんな両兵だから、みんな信じられる。そんな彼だから――自分は少しばかり自分のことを話す気になれたのかもしれない。 「……おにい……小河原さん」 「好きに呼べよ」 「……お兄ちゃん。私、ね、柊神社に来てよかったと思ってる。ルイさんも、まだ心を許してくれたのか分からないけれど、でも……あたたかいものを感じる。それに、赤緒お姉ちゃんはとっても優しいし、立花さんも、メルJさんも喧嘩はやめてくれたし……五郎さんには教わることがいっぱいで……。充実している、って思うの」 「まるでそれだけじゃないみたいな言い草だな」  目ざとい両兵の言葉にさつきは切り出していた。 「……今日よりも、昔のほうができたって思うことは、お兄ちゃんはない?」 「あー……時々はあるな。あン時のほうがよっぽどうまく、みたいなのだろ?」  首肯してから、さつきは己に付き纏うその感覚を口にしていた。 「私は、いっつもそうなの。それがずっと、後ろをじぃっと静かに、ついて回っている。分かんないの。いつからこうなっちゃったのか。いつから、こんな考え方になったのか。……これって変なのかな? お兄ちゃん……」  きっと、なんて事はない、と両兵は笑い飛ばしてくれる。そう期待しての告白に両兵は真摯に耳を傾けていた。  普段は粗野だと言われてしまう彼からは想像もできないほどの真剣な面持ちで。  不意に両兵は立ち上がり、街に向けて大声で吼え立てた。  思わぬ奇行にさつきは頭がついていかない。 「お、お兄ちゃん?」  どうしたのだろうか。まさか怒らせてしまったのだろうか。不安が胸を占める前に、両兵はよし、と息をついていた。 「さつき。今の、オレがいっつもしていると思うか?」  今しがた大声を出したことだろうか。ふるふると首を横に振ると、だろ、と両兵は指差す。 「今日できなかったことが昔できたとかよ、昔得意だったことがもうできなくなったってのは、案外当たり前なもんだ。ただ、だからって自分の殻に籠っていたら、できないことばっか増えちまう。だから、オレは今一個、今までやってこなかったことをやってみた。どうだ? これが過去とか未来で、後悔する材料になると思うか?」  その問いかけにさつきは頭を振っていた。どう考えても今の行動はやってもやらなくても関係がないであろう。  両兵はフッと笑みを刻む。 「そういうもんなのさ。今やったから、昔がどうだとか。昔やれたから、今はどうってのはよ、結果論だし、オレはそういう考えは面白くねぇと思ってる。オレらには、多分、今しかねぇんじゃねぇか? だったら、今しかないこの瞬間を、わがまま放題生きられれば、それでいいだろうが」  今しかない瞬間を、わがまま放題――。自分の辞書に載っていなかった生き方に、この時さつきは確かに眩しさを覚えていた。  そのわがままの一環として、さつきは大声を張っていた。  両兵に比べれば弱々しいかもしれない。それでも自分からしてみれば唯一の抵抗。沈んでしまいがちな己への鼓舞。 「でけぇ声出るじゃんか。さつき、てめぇはもっとわがままでも――」 「いた! 両兵! 人さらい!」  こちらを察知したエルニィが笛を鳴らす。その笛に導かれてアンヘルメンバーが押し寄せてきた。 「さつきちゃんに何をするんですかっ! 小河原さん!」 「見下げ果てたな、小河原。……こんなところで密会など」  やべっ、と声にした両兵はすぐさま身を翻す。 「今日ンところはずらかるわ。……わがまま放題な連中に付き合うのも、骨が折れるっての!」 「待てーっ!」  追い立てるアンヘルメンバーにさつきは自然と頬を綻ばせていた。  他人のことなのに、自分のことのように怒ってくれる人たちがいる。そういう人たちと一緒ならばきっと、昔できなかったことに挑戦したり、昔はできたことに落胆したりせずに済みそうだ。 「……ありがとう。お兄ちゃん」  夕映え空を吹き抜けた風に、さつきは小さくくしゃみする。  そう言えば服が濡れたままだった。  両兵を追い掛け回す一同が視野に入る。境内を抜けて商店街まで追撃していた。  それを微笑ましく眺めつつ、さつきは昇った夕陽に今一度、大きく声を上げるのであった。  こんな現状にがなるだけのわがままを、どうか私にくださいと。

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