――雨がやんだら、謝ろう。  そう思った時があった。それでも無情にも降りしきる雨は、どこか自分を突き放すようにも見えて。このような瑣末事でいちいち感情を揺り動かされる自分を馬鹿馬鹿しいのだと、叱っているようでもあった。 「……やまねぇな。雨」  橋の下で両兵はそうこぼす。思い返すのはどうだっていいことばかりなのに、どうでもよくない事実だけが自分の前に屹立している。  それは、解決すべき問題なのか、はたまたこのまま放置してもいいのか。  決めあぐねた自分にとって雨粒の叩きつける音は誰かの叫びのようであった。両兵は瞼を閉じる。  別段、今回が特別でもない。ちょっとばかり女の感情が分からない時は今まで何度だってあっただろうに。 「……あン時とだぶるな。だから参っちまってるのか、オレ」  青葉と南米で別れた夜も雨だった。そして記憶の底に沈殿する、最初で最後の記憶も、雨であった。  いつだって雨空だ。自分の胸の中は、雨が降りしきる。  灰色の豪雨は、埋めようのない断絶に思えた。 「雨脚が強くなりましたね……」  五郎の心配そうな声音に赤緒はぷいとそっぽを向いた。 「知りません! 小河原さんなんて……」  五郎が微笑みながら蜜柑を差し出す。台所に立った五郎のエプロン姿は板についていた。 「もらったものです。どうぞ」  不承ながらにそれを受け取る。五郎は静かに口火を切っていた。 「傘が、要りますね」 「傘なんて。濡れて帰っちゃえばいいんですっ!」 「小河原さんのことを話したんじゃありませんよ?」  ハッとした赤緒へと五郎はフッと口元を綻ばせる。 「仲直りすればどうです? いつもの赤緒さんらしくない」 「私らしいって……何ですかっ。だって、何度も注意しているのに。みんなとご飯を食べて欲しいって……。それを小河原さんったら、こう言ったんですよ! 女共と食うメシはまずいって! そんなこと言われたら、私じゃなくったって怒りますっ!」  アンヘルの面々の前でなくってよかった、と赤緒は感じたほどだ。自分以外なら確実に噛み付いていただろう。  ただ、今回は他ならぬ自分が怒ってしまったのであるが。 「小河原さんも、虫の居所が悪かっただけですよ。それに、何だか赤緒さんもちょっと変じゃないですか? いつもなら、そんなことでは怒らないでしょう?」 「そりゃ……そうですけれど……」  どうして、怒ってしまったのか、自分でも実は判別がつけかねているのだ。アンヘルの一員だと思われていないのか、という疑念があったわけでもなく、かといって皆の総意で怒りを発したわけでもない。  このふつふつとした怒りの感情はどこから湧いてくるのか、不明なのだ。  ただ自分の中の何かが、その言葉は両兵から聞きたくなかったと告げている。それだけは確かであった。 「……自分でも分からないんです。たまに、自分でも、これが自分なのかな、って思う時があって。……記憶喪失って厄介ですね」  務めて笑おうとしたが、五郎は微笑みもしなかった。 「赤緒さん……。無理して笑うものじゃないですよ。あなたの記憶喪失に関しては、特に……」 「分かっているんです。分かっているんですけれど……」  こんなことで怒っていてどうする。たかが自分と両兵の気持ちのすれ違いではないか。だからこんなこと、大したことじゃないと笑って流すべきなのだ。  それを受け流せなかったのは、あの時、モリビトでの敗北の後――シャンデリアで思い返したビジョンが脳裏にあったからかもしれない。  打撲を作り、泣きじゃくる子供たち。その一団を少し離れた場所で目つきの鋭い少年が睨んでいる。  自分は彼へと尋ねていたのだ。  それはあなたがやったのか、と。  彼は笑みさえ浮かべてこう言ってのけた。――だったら? と。  その言葉振りに、自分は張り手を見舞っていた。  ――どうしてそんなことをするの! 人を傷つけて何が楽しいのよ……!  自分でも分からない。どうしてそこまでの怒りがあったのか。ただ目の前の少年の蛮行を放っておけなかったのだ。  それを、泣きじゃくっていた一人の少女が歩み寄って頭を振る。  ――違うの。両にいちゃんは……私がいじめられていたから……。だから……。  決定的な間違いを犯した、と分かった時には少年は走り去っていた。その背中を追えぬまま、ビジョンは終わりを告げる。  胸に重い後悔を沈殿させたまま。  あれは何だったのだろう。昔の記憶の残滓だろうか。  それとも、夢で見るだけの、ただの情景。意味を結ばない幻影だったのだろうか。判別する術を持たず、赤緒はため息をつく。 「雨がやんだら、迎えに行きましょう。そうしたほうがいいに決まっています」  五郎の提案に赤緒は、いいえ、と首を横に振る。その強情さに彼は呆れ返った。 「赤緒さん……。小河原さんだって素直じゃないんですから。分かっていることでしょう?」  両兵と出会って随分と経った。アンヘルの仲間たちとも打ち解け始めたところである。メルJの因縁を振り払い、ようやく再出発だ、という矢先だったせいかもしれない。  エルニィは人機の改修任務に忙しく、さつきは学業、ルイは南と共にどこかへと出かけてしまっている。メルJはようやくアンヘルへと正式に入ってくれたのだ。彼女の一人の時間を邪魔してはいけないことくらいは分かっている。  みんなが一つになろうとした、そんな時に、だからこそ許せなかったのか。  あるいは勝手な自己欺瞞かもしれない。自分が一番、両兵のことを分かった気でいるから、こんなことで苛立ちを覚えたのもある。 「……五郎さん。傘を貸してもらえますか?」 「……私も一緒に行きましょうか?」 「いえ。これは、私が謝らないと。……せめて、雨がやんだら」  もう少し素直になれそうなのに、と赤緒は重く垂れ込めた曇天を憎々しく見据えた。  思えば、昔もそうであったな、と両兵は橋げたを睨んで思い返す。  雨の日にはいつもそうだ。  いい思い出なんてない。父親の剣術を習うのが億劫で逃げ出した時も、人機の性能に浮かれて親方と喧嘩した時も。……青葉を初めて泣かせてしまった時もそうだ。  いつだって自分の景色は雨であった。晴れ渡った空なんてついぞ拝んだことのない身なのだ。 「……勘違い、してたのかもしれねぇな」  自分が晴れた側にいるものだと。恵まれた境遇にいるものだとばかり。それはここ数日間の「彼女ら」との思い出が余計に際立たせたのかもしれない。  赤緒を叱責した。兄の幻影を追うさつきを救おうとした。メルJの呪縛を解き放とうとした。  どれもこれも、自分の力だと自惚れたつもりはない。それでも、やはり……この身には余る代物だったのだろう。  足をかけているのはどちらかと言えば南米で対峙したあの男の側なのだ。 《モリビト一号》、倒したはずのあの機体の幻影に振り回されて、自分は結局、大切なものを取りこぼす。  それがお似合いなのだと、あの男に嗤われているようでもあった。  ――どうして、陽の当たる場所にいられると思った?  耳にこびりつく黒将の声が蘇ってくる。 「……うるせぇよ」  ――貴様は俺と同じだ。同類なんだ。人機の力に取り込まれ、そしてやがては全てを破壊する。それが末路だと、あの時分かったはずだ。 「……うるせぇって言ってるんだ」  ――誰かを助けられると思ったか? その手は何者でもない、誰かを殺すためにあるというのに。 「だから! 分かり切ったこと言ってるんじゃねぇ!」  張り上げた声に灰色の光景に沈んだ人影がびくりと震えた。視界の端にいたその人物へと振り向く。 「……柊」 「あの……すいません。私……その……」  お互いに相手の心へと踏み込む言葉を持たないのだろう。自分も、簡単に謝るつもりはなかった。 「……何だ? 橋の下にいるバカを笑いに来たのか?」 「そんな……! 違いますっ! 私は、そんなんじゃ……」  言葉を搾り出そうとして何も言い出せない。そんな沈黙に、耐えられそうにもなかった。  両兵は傘を差した赤緒を睨む。  その姿が、遠い昔の記憶の残滓と、ぴっちり合わさった。  思い出すこともほとんどなくなった、子供の頃の思い出。 「……ガキん頃、日本にいた時に……一度だけだったな。オフクロが滅茶苦茶に怒った時があったんだ」 「小河原さんの……お母さん……」 「名前も覚えていねぇし、ろくに世話になった記憶もねぇよ。随分と大人しくてな。ほとんど親父の記憶ばっかりさ。三歩後ろを歩くって言うの? ああいう、何を言ってもまるで全然ダメージになりませーん、みたいな……。思えばオフクロはオレを叱るのを、怖がっていたのかもしれねぇな」 「どうして……ですか。だってお母さんでしょう?」 「だからだろうさ。親父の都合で日本とベネズエラを行ったり来たり。……密航ルートは六つの時には完璧に覚えていたな。それくらい、俺にとっての日本は故郷じゃねぇんだ。こんな田舎くさい……灰色のビルのジャングルじゃねぇ……マジの密林で育った時間のほうが長いんだからな」  思い返すと、日本での記憶は本当にないのだ。青葉のことも完全に忘れていたくらいである。 「……お母さんは、何で怒ったんでしょう……」 「何でだったかな。忘れちまったよ。近所じゃ、噂の悪ガキって言われていたらしいからな。いくらでも怒られる心当たりならあるさ」  それでも、一度きりだ。後にも先にも、母親が怒ったのは――自分の頬を叩いたのは、その一度きり。 「……昔からだったんですね」 「うるせぇよ。……何しに来た」  どうしても突き放す物言いになってしまう。赤緒の言いたいことは分かっているはずなのに、どうしてだか素直になれない。  ――雨がやまないからだ。  雨がやめば、少しは届くのに。  雨がやんだら、謝れそうなのに。 「……きっと、小河原さんのお母さんと同じ気持ちなんだと思います」  赤緒は立ち尽くしたまま、それでも絶対にそこからは離れようとはしなかった。傘を差す手に力を込めて、言葉を紡ぎ出す。 「小河原さんを放っておけないから……きっとお母さんもそうだったんじゃないでしょうか? 子供のことを、一番に考えない親なんていませんし……」 「何でお前が、オフクロと同じ気持ちなんだよ」  それは、と返事を窮する赤緒に両兵は言ってやった。 「悪かった、なんて言うつもりはねぇ。オレは間違ったことはしてねぇからな」  こうなればてこでも動くまい、と意地であった。こんなつまらないことでいつもは諍いなんて起こさないのに。  赤緒は軽蔑しただろうか。勝手にすればいい、と視線を外したその時であった。  彼女は言葉を搾り出す。 「……ゴメンなさい。小河原さんのこと、私も分かっていませんでした」  まさか赤緒から謝られるとは思わず、両兵は振り返っていた。赤緒は身体を折り曲げ、頭を下げている。  その姿が脳裏で二重像を結んだ。  ――ゴメンね。両兵。  どこで聞いた声なのか、いつの記憶なのかも定かではない。  だが、眼前の赤緒に両兵はいつかの母親の言葉が蘇ったのを感じていた。そしてその時、自分の発した言葉も。今の両兵の喉を震わせたのは、いつかの言葉の再現であった。 「……謝るのは、筋じゃねぇよ」  歩み寄り、赤緒の傘を持つ手に自分の手を添える。  ハッと面を上げた赤緒に両兵は目を見ずに言いやった。 「……悪かったな。オレも考えなしの言葉だったかもしれねぇ」  どうしてなのだろう。こんな些細なことで、すれ違っただけなのに。  赤緒は涙ぐんだまま、笑っていた。その笑顔が今にも壊れそうに思えて、両兵はその手をぎゅっと握り返す。 「小河原さん……痛いですっ」 「あっ、悪ぃ……」  反射的に手を離し、気まずい空気が流れる。その沈黙を破ったのは、赤緒のほうであった。 「見てください、小河原さん。雨がやみました!」  掌を翳す赤緒に、両兵は空を仰ぐ。曇天の向こうには青空が広がっていた。高く、遠い空の果て。いつか青葉と共に見た風景でもあり、そして今は赤緒と共にある。  どうしてなのだろう。  替え難いこの光景がいつになく目に沁みたのは。 「小河原さん……?」  顔を背けた両兵を赤緒は慮る。 「何でもねぇ。……腹ぁ、減ったな。メシにすっか」 「あっ、今日は五郎さんが和食を振る舞ってくれるそうです! お手伝いしなきゃ……お買い物、付き合ってくれますか?」  赤緒のお願いに両兵はげんなりする。 「おいおい……。オレに謝ったのは買い物のついでかよ」 「わっ……ゴメンなさいっ! ……嫌でした?」  赤緒といるとペースを乱されっ放しだ。両兵は後頭部を掻いて言い放つ。 「ウマイもんでチャラにしてやる!」  赤緒はその一言でぱあっと顔を明るくした。どうにも、分かりやすい性分である。  ――まるで出会う前から知っていたような……。  いや、そのような感傷、自分には相応しくないだろう。 「にしたって、雨はやる気出ねぇな」  ああ、だから雨は嫌いなのだ。  余計な感情ばかり胸の中で渦巻いてしまう。 「雨がやんだから、お買い物日和ですね! 小河原さん!」  そうか、と両兵は空を仰いだ。まるで気づけなかった。 「雨って、やむんだな」 「もうっ、当たり前じゃないですか。やまない雨なんてないんですから」  ははっ、と自然と笑みがこぼれる。 「そっか……。やまない雨なんてねぇのか」  いつか、この胸に降りしきる雨も晴れてくれる。そう考えると重石が一つ分だけ軽くなったような気がした。  ――そうだ、雨はやむ。だから、雨がやんだら……。  くしゃくしゃと赤緒の頭を引っ掴んで撫でてやる。その行動に彼女は目を丸くしていた。 「な、何ですか!」 「悪ぃ。そうしたい気分だったんだよ!」  走り出す。自分でもガラにもないとは思っている。だが、雨がやんだのだ。  だったら、走り出せばいい。  そんな簡単な答えが、今は明瞭なものとなって目の前に見出された。 「もうっ! 待ってくださいよ! お買い物から逃げないでくださいねーっ! 小河原さん!」  追いかけてくる赤緒もそうだ。  いつかこの風景も思い出になる。ならちょっとばかしの雨なんて。 「――許せちまうのかな、多分」  そんな日が来ればいい。そう願う。

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